2020年01月11日
長村家墓地笠塔婆 南北朝時代後期~室町時代前期 玖珠郡玖珠町
南北朝時代後期~室町時代前期
大分県玖珠郡玖珠町大字大隈1218教念寺裏 長村家墓地
凝灰岩製
教念寺境内裏に隣接して小さい丘があり、その頂部を平らにして長村家墓地があり、石塔が並んでいる。地面は、セメント舗装され、石塔は全て、そのセメントに固着して並べられている。
塔身高;139.0センチ
基部幅;25.5 上部幅;23.5
笠塔婆は、凝灰岩自然石の基礎に、塔身下部をセメントで固着されている。接合部がセメントに覆われ、確認できないため、この基礎が元からのものかは不明。
塔身は、細長い角柱で、上部幅を下部より少し小さくする。上部に、金剛界四仏種子を細めの刷毛で薬研彫する。文字内には、墨を入れている。書体は、まとまって、彫りも丁寧だが、鎌倉時代の力強さは感じられない。2面に、5字4行の偈を墨書し、他2面は無地のようである。墨が消えかかっており、読み取れなかった。紀年銘は無いように思われる。
上に乗る笠は、時代や大きさは合っているように見えるが、当初からのものか不明。塔身上部と笠下部が接着されているため、上下の構造を確認できないが、五輪塔火輪を転用したとも考えられる。笠上は、五輪塔風空輪を転用したものと思われる。












2019.10.30.撮影
2019.12.28.撮影
調査協力者;A.I.
長村家墓地梵字キリーク碑伝形板碑 室町時代 玖珠郡玖珠町
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室町時代
大分県玖珠郡玖珠町大字大隈1218教念寺裏 長村家墓地
凝灰岩
塔高;73.0センチ
身部下部幅;27.5 身部下部側面厚;9.0 身部下部最大厚;11.0
身部上部幅;26.0 身部上部側面厚;9.0 身部上部最大厚;10.5
額部幅;26.0 額部側面厚;12.0 額部最大厚;13.5
長村家墓地の低い丘陵南側、1段低く作られた墓群前列中央に南面して建てられている。
基部はセメント埋込。額を厚く出した、碑伝形板碑で、頂部を少し欠いている。2段の切り込みは、明確に彫り出し、側面まで回る。背面は、中央部を少し張り出させている。碑面、額部、2段の切り込み、頭部、側面などは、丁寧に加工されている。背面は、荒仕上にする。
身部上半分一杯に、大きく刷毛書の梵字「キリーク」を薬研彫で表す。書体は、線に張りが無く、浅い彫りとも相まって、造立時代の降下を思わせる。
2019.12.28.撮影
2020.01.02.撮影
2020年01月08日
山添岩薬師半肉彫日光菩薩立像石仏、月光菩薩立像石仏 室町時代末期 玉名郡南関町
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室町時代末期
熊本県玉名郡南関町大字細永 山添岩薬師
凝灰岩製
道路脇に石垣を積んだ1画があり、石段を登ると、凝灰岩の岩壁にお堂が造りつけられ、その中に磨崖仏と石仏が祀られている。
本尊の薬師如来坐像の両側に、少し小さくした舟形光背型龕の上部が残されており、もとは三尊形式の配置であった事が解る。また、本尊と右脇侍との龕と龕の間には天部か菩薩立像と思われる墨書の腕部分が残っていて、肉眼でも確認出来る。現在は、その両脇侍の舟形光背型龕の下部を切って堂の壁まで横長の龕が深く彫り込まれ、室町時代後期になって造られた半肉彫の石仏が並べられている。石仏は、薬師如来の脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像の2組の4体4石と1石に3体ずつで4石に彫られた十二神将立像である。
2組の日光菩薩立像石仏、月光菩薩立像石仏のうち、本尊の左右の2個目の石仏。
右脇侍が
石材下部幅;26.0 石材高;56.0 像高;31.0
左脇侍が
石材下部幅;24.0 石材高;54.0 像高;32.0
享禄四天銘石仏と比較すると小さめで、彫り込まれた石仏の像高も小さく造られている。右脇侍は、完形で残るが、左脇侍は頭部を含んで、石材の左上部を大きく欠いている。
両像は、左右対称の作りになっており、岩座の蓮台上に直立に近い姿で表わされている。蓮弁は、享禄四天銘のものと異なり、蓮弁が細長で弁の数を多くして、中央部を高く、両側が低くなっている。像は、宝冠を付け、天衣を左右に翻している。髻は低く作る。左脇侍の頭部は失われているが同様の造りをしていたと思われる。両尊とも両手で蓮葉を一つ付けた蓮華の長い茎を持つ。蓮華の上に、右脇侍が日輪、左脇侍が月輪を乗せているので、右が日光菩薩、左が月光菩薩だと解る。像の配置は、享禄四天銘像と同じく、正面から外向きになっているが、これは享禄四天銘像に合わせたもので、元は、正面に向かって内側向きになるように配置されていたものではないかと思われる。
右脇侍の左脇に1行
「福山□□□尉尚勝」
の俗名が彫られている。他に刻字は見られない。
造立の時代は、享禄四天銘像と比べると、蓮弁の形や、像容、彫刻等がやや退行しているように思われるので、享禄四天銘像より遅れて、それでもなお室町時代後期に属する頃に造られたものと考えられる。















2020.01.02.撮影
1970頃 モノクロ
1973頃 モノクロ
参考文献;『有明地方石文集』(多田隈豊秋編著 有明地歴研究会刊 昭和43年)
2020年01月06日
山添岩薬師半肉彫日光、月光菩薩立像石仏 享禄四天銘 玉名郡南関町
1531.08.吉日 享禄四天辛卯八月吉日
熊本県玉名郡南関町大字細永 山添岩薬師
凝灰岩製
道路脇に石垣を積んだ1画があり、石段を登ると、凝灰岩の岩壁にお堂が造りつけられ、その中に磨崖仏と石仏が祀られている。
本尊の薬師如来坐像の両側に、少し小さくした舟形光背型龕の上部が残されており、もとは三尊形式の配置であった事が解る。また、本尊と右脇侍との龕と龕の間には天部か菩薩立像と思われる墨書の腕部分が残っていて、肉眼でも確認出来る。現在は、その両脇侍の舟形光背型龕の下部を切って堂の壁まで横長の龕が深く彫り込まれ、室町時代後期になって造られた半肉彫の石仏が並べられている。石仏は、薬師如来の脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像の2組の4体4石と1石に3体ずつで4石に彫られた十二神将立像である。
薬師如来の脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像は、2組が並べられている。その内、本尊に近い1組が古い。
日光菩薩立像石仏
石高;68.0
石下部幅;27.0
像高;43.0
月光菩薩立像石仏
石高;62.5
石下部幅;32.0
像高;44.0
右脇侍の日光菩薩像の右側に
「左□□」
左脇侍の月光菩薩造立像の右側に
「享禄四天辛卯八月吉日/本願主壽椿」
の銘がある。
2体の像は、ともに半肉彫り。小さな3弁反花と敷き茄子を付け、大きな5弁の蓮台上に、それぞれ、両手で日、月を乗せた蓮華の茎を持って膝と腰をまげて、斜め前を向いている。碑面一杯の大きな頭光を付け、高い髻を結い、宝冠を付け天衣を翻している。石材や大きさ、全体の彫刻、像容も左右対称にほぼ同じ姿に作られ、もとからの2体一具のものである事が解る。ただ、蓮台の蓮弁の意匠だけは少し変化を持たせている。現在は本尊に対して外向きになっているが、もとは左右逆の内向きに配置されていたのではないかと思われる。
また、同所の十二神将石仏とは石材、彫刻とも似通っており、同時の造立と考えられる。




日光菩薩立像石仏


月光菩薩立像石仏




造立紀年銘(月光菩薩立像石仏)

2010.01.02.撮影
1973頃 モノクロ、拓影
参考文献;『在明地方石文集』(多田隈豊秋編著 有明地歴研究会刊 昭和43年)
2020年01月05日
山添岩薬師半肉彫薬師如来坐像磨崖仏、墨線描不明立像2体残欠 南北朝時代 玉名郡南関町
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南北朝時代
熊本県玉名郡南関町大字細永 山添岩薬師
凝灰岩製
道路脇に石垣を積んだ1画があり、石段を登ると、凝灰岩の岩壁にお堂が造りつけられ、その中に磨崖仏と石仏が祀られている。
堂内に区切られた凝灰岩壁面中央に舟形光背型龕中、蓮台上に薬師如来坐像を浮き彫りしている。
舟形光背型龕幅;96.0 舟形光背型龕高;165.0
蓮台高;15.5 膝高;7.0
蓮台は、大きな円台の前面の1部だけを出した形で、1段にして、側面に間弁を付けた船型の単弁を並べた簡単な表現にする。蓮台上には、衣文の裾先を薄く彫り出す。その上に、膝部を低く1段切取って、側面に衣紋線を彫り、上面に足先を薄く彫り出す。膝から上の体部は全体を平たく浮き出させて衣紋や右手は線刻で表現し、薬壺を持つ左手は膝上面に乗せている。頭部だけは、立体的な浮き彫りにして丁寧な仕上げになっている。体形は、なで肩で、膝は薄いが幅は充分に取っている。
薄く突き出した平板な膝部の造りや、体部を平面にして線刻にする等の表現には時代の降下を思わせる所も見られるが、丁寧に彫られた頭部の表現は時代の古さを感じさせる。南北朝時代まで遡ると思われる。
薬師如来坐像の両側には、少し小さくした舟形光背型龕の上部が残されており、もとは三尊形式の配置であった事が解る。また、本尊と右脇侍との龕と龕の間には天部か菩薩立像と思われる墨書の腕部分が残っていて、肉眼でも確認出来る。現在は、その両脇侍の舟形光背型龕の下部を切って堂の壁まで横長の龕が深く彫り込まれ、室町時代後期になって造られた半肉彫の石仏が並べられている。石仏は、薬師如来の脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像の2組の4体4石と1石に3体ずつで4石に彫られた十二神将立像である。

1970頃 モノクロ
1973頃 モノクロ
参考文献;『在明地方石文集』(多田隈豊秋編著 有明地歴研究会刊 昭和43年)





































